伊東 深水 ITO Shinsui 岐阜提灯

伊東 深水 ITO Shinsui 岐阜提灯

(SH-0072)

作品情報

作家名 伊東 深水/ITO Shinsui
作品名 岐阜提灯
商品番号 SH-0072
寸法 全体のサイズ:H37.3cm×W25.3cm
刷りのサイズ:H33.0cm×W21.5cm
摺刷 不明
備考

コンディション

ヤケ シミ
ヤブレ チギレ
オレ 裏打ち
ムシクイ マージンカット
テープ跡 ピンホール

コンディションについて

作品詳細

伝統的な歌川派浮世絵の流れを継ぐ「最後の美人画家」と言われた伊東深水の一枚です。大正時代から活動していた深水ですが、昭和に入ってから渡邊庄三郎に見出され、版画作家としても活動を開始しました。提灯を掛けようとする女性の様子を描いています。「岐阜提灯」は江戸時代から続く伝統的な提灯であり、岐阜県は福岡県と並び日本における二大提灯産地とされています。伊東深水は多作の作家であり、中でも女性を描いた作品で知られています。上村松園、鏑木清方、伊東深水は「美人画の三巨匠」と呼ばれ、時代を越えて評価されています。三巨匠の他の2名の作風と比べると、さらにいえば後年の深水の作風と比べると、イラスト的なタッチで描かれています。自分の画風を版画へいかに落とし込むのかを模索していたのではないかと推量します。チギレが見られるなどやや状態は悪いですが、額装対応いたしますのでご相談ください。

作家情報

伊東 深水/ITO Shinsui
明治31年(1898)〜昭和47年(1972)
日本 東京都出身

略歴

木材問屋を営む家に生まれた伊東深水は、地元の小学校に入学しますが、家の経営が傾いたため3年次に中退します。10代になったばかりという年頃でしたが、当初は看板屋で、また翌年には印刷会社で職工となり家計を支えていきます。しかし一方で絵に興味を持ち、日本画家の中山秋湖に学び始めたのもこの時期でした。約3年後には美人画家として有名であった鏑木清方に弟子入りして「深水」の号を授かり、翌年には巽画会への出品作で初入選となりました。こうして日本画壇に名を知られるようになった深水は、さらに翌年、同展で一等褒状を獲得します。10代半ばにして大きく才能を開花させると、務めていた印刷所を辞め、画家としての活動に専念していきます。そしてそれから5?6年の間は、作品展への出品よりも新聞や雑誌の挿絵、特に木版画の研究や制作に没頭しました。18歳で初めての木版画作品を発表すると次第にその名を広めていき、また木版画の復興を唱える新版画運動にも加わりました。川瀬巴水らと共に情緒豊かな作品を次々と発表し、その運動の流れを形作ったほか、第一次世界大戦後も新版画の版画家としてしばらく活動しています。
1919年に結婚したのちは、妻をモデルとした作品「指」を描き、博覧会で2等銀牌を受賞。それからは妻を元に描く、生活の中にある美しく雰囲気のある一幕を主題に、美人画を多く発表していき、美人画を得意とした画家のひとりとして後年にも名を残す作品を仕上げていきました。
昭和に入ると画塾を開校し、30代後半には個展を開催。創作意欲は第二次世界大戦時にも続き、展覧会への出品を継続したほか派遣された先で4,000にも及ぶ素描を描きました。また戦時中には肖像画の発展を願った美術団体、青衿会を発足させています。
戦後、一時は疎開し関東から離れますが、間もなく戻り、以降は日展を中心に活躍していきました。1947年には発表作品が日本芸術院賞を受賞し、日本画家の児玉希望による画塾と青衿会を合併すると、後進の指導に尽力していくこととなりました。

作品の特徴

深水は一般に美人画家として有名ですが、はじめは社会の下層階級に注目した労働者、乞食、新聞配達などを対象とした優れた作品をのこしています。
制作の中心となったいわゆる深水風美人画は、歌川派浮世絵の正統を継いでおり、日本画独特のやわらかな表現が魅力です。妻である好子をモデルに大作を数多く発表し、評価を高めました。美人画以外の画題を描きたくとも、それ以外の注文が来ず、画家として困惑する時期もあったといいます。
戦後は美人画とも並行し、個人的に独自の題材で日本画を制作することが多くありました。人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として頒布されています。

在庫状態 : 在庫僅少
¥88,000(税込)
数量