島 成園 SHIMA Seien 新浮世絵美人合 七月由あが里
島 成園 SHIMA Seien 新浮世絵美人合 七月由あが里
作品情報
作家名 | 島 成園/SHIMA Seien |
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作品名 | 新浮世絵美人合 七月由あが里 |
商品番号 | SH-0057 |
寸法 | 全体のサイズ:H45.1cm×W28.7cm 刷りのサイズ:H38.8cm×W24.3cm |
摺刷 | 不明 |
備考 |
コンディション
ヤケ | ◯ | シミ | ◯ |
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ヤブレ | ◯ | チギレ | |
オレ | ◯ | 裏打ち | |
ムシクイ | マージンカット | ||
テープ跡 | ◯ | ピンホール |
作品詳細
「女の性」を切り取った、妖艶な画風を確立した島成園。女性画家ならではの感性で描かれた美人画が人気の作家です。
少し気だるげな雰囲気をまとった女性は、正統派の美人画とは異なる魅力が感じられます。はだけた着物からは白い肌がのぞき、眼差しは力強く、美しい外見の奥に隠された内面にも思いを馳せることができる一枚です。
背景には「雲母摺」という技法が施されています。これは、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵でお馴染みの技法で、キラキラと輝く雲母の粉や貝殻の粉を使用します。摺り上がった紙の表面には真珠のような美しい光沢が現れ、わかりやすく豪奢な仕上がりとなります。
作家情報
島 成園/SHIMA Seien
明治25年(1892)〜昭和45年(1970)
日本 大阪府堺市出身
略歴
大阪府堺市に生まれた島成園は、母の実家である遊廓街にある茶屋で幼少期を過ごします。父は襖などに絵を描く画工、兄も引札(広告のようなもの)や団扇などに絵を描く画工を生業とするかたわら、日本画家としても活動していました。15歳ごろから父や兄の仕事に興味を示し、見よう見まねで絵を描き、ほどなく「大阪絵画春秋展」に小野小町を描いた絵を出品。その一方で北野恒富、野田九浦らにも私淑して日本画の基礎を学びました。いくつかの図案競技会に作品を出品したのち、1912年の第12回巽画会展に「見真似」が、第6回文展では「宗右エ門町の夕」がそれぞれ入選し、弱冠20歳で中央画壇へのデビューを果たしました。東京、京都が中心とされていた当時の日本画壇において、大阪からの年若い女性画家の出現は画期的なこととして迎えられ、大正期には京都の上村松園、東京の池田蕉園とともに「三都三園」と並び称されます。
そのデビューが華やかだったこともあり、様々なゴシップを書き立てられるも、対抗して次々に傑作となる話題作を発表しましたが、結婚後、大正末から昭和以降は絵が平凡になったと言われ、1927年の第10回帝展に「囃子」を出品した後は、夫の度重なる転勤に同行し、絵が描けない時期が続きました。
終戦後の1946年に夫の退職に伴って大阪に戻り、1951年には帰阪後初となる個展を開催します。その後も多くの個展を開きました。
作品の特徴
島成園の代表作である「無題」は、感覚的な洗練を追求するそれまでの「美人画」から一歩抜け出し、成園自身ともいわれる漆黒の着物を着た女性の顔に痣を描きこむことによって「痣のある女の運命を呪い世を呪う心持ちを描いた」といいます。自らの心情を表現しようとした意欲作であり、発表当時は様々な意見が寄せられました。
近代美人画の先駆者となり、更には美人画の粋を超え、近代画家の主題である自己の内面主張を表現するにいたった成園ですが、結婚、夫の転勤など生活が変わるにつれて、作品も変化していきます。自分の感情を隠すことなく表現し、凄みのある退廃的な作品を描いていた若い頃とは打って変わり、緻密さやデザイン性を感じさせるようなおだやかな作風になります。
また、絵画のみならず、版画や雑誌、小説の口絵や挿絵も手掛けており、現代でいうグラフィックの世界においても才能を発揮しました。